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家康が狸親父の片鱗を見せた「三河一向一揆」の結末

史記から読む徳川家康⑨

 同年23日にも、家康と信元の連合軍が一揆方に攻撃を加えて勝利している。この頃から、一揆に与していた家臣たちが家康に帰参を申し出る例が続出したようだ。

 

『三河物語』によると、両軍の和睦交渉のはじまりは一揆方に寝返っていた松平家家臣の蜂屋貞次(はちやさだつぐ)の申し出からだった。和睦の条件として提示されたのは、家臣たちの謀反を許すことと、寺を以前のままに置いておくこと。そして、一揆の首謀者の赦免だった。

 

 一向宗の利益を全面的に認める内容だったことから、寺院側は和議を受諾。両軍の和睦は1564(永禄7)年228日に結ばれた(『参州一向衆乱記』「無量寿寺文書」)。

 

 家康は帰参した家臣の多くを許している(『落穂集』)。一方で、寺院をそのままにするとの約束を覆し、土呂(とろ)、針崎(はりさき)、佐崎、野寺の寺院を破壊した。なおかつ、一向宗の門徒に宗旨変えを強要している。「以前のままに置く」とした約束が違う、と一向宗門徒が抗議をすると、家康はこう言い放ったという。

 

「以前は野原のようだったのだから、以前のように野原にせよ」(『三河物語』)

 

 のちに「狸親父」などと揶揄される老獪な政治家としての顔を見せた瞬間ともいえる。以降、家康はしばらく三河領内に一向宗寺院を建立することを禁じた。許されるようになったのは1583(天正11)年のこと。実に19年もの月日が流れている。

 

 家臣の三河武士に寛大な処分を下したのは松平家の弱体化を懸念したからと考えられるが、一向宗にはだまし討ちをしてでも領内からの排除を進めたのは、やはり宗教の底知れない力を警戒したからだろう。

 

 三河一向一揆は、家康の三大危機のひとつとして語り継がれる一方で、三河国西部に巣食う反家康勢力を一掃し、領内の支配と家臣団の結束を飛躍的に高めた戦いと位置づけられている。

 

 この一揆に松平氏の菩提寺である浄土宗の大樹寺(だいじゅじ/愛知県岡崎市)も家康方として参戦している。大樹寺が掲げた幟旗には「厭離穢土欣求浄土」という八字が書かれていた。意味は「汚れた現世を離れて極楽浄土に生まれ変わりたいと願うこと」。浄土を願うという点では一向宗と変わりはないが、浄土宗は家康の帰依する仏教宗派である。

 

 この戦いから家康の合戦には「厭離穢土欣求浄土」の幟旗が掲げられるようになったといわれている。浄土宗を三河の国教にしたいという家康の狙いがあったのかもしれない。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力に『地球の歩き方「戦国」』(地球の歩き方/2025)、『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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